こんにちは。現役の高校体育教師のAPETです。
今回は、「社会に開かれた教育課程」について10分で解説していきたいと思います。
この記事は、公立高校でリアルタイムに教えている体育教師から
という方へ向けた記事です。
学校の根幹かつキーマンの「社会に開かれた教育課程」
さて、”社会に開かれた教育課程”。
このフレーズが出てくると、
「どこの誰に開くの?」
「教育課程は教科の指導計画なんだから、学校の外に見せてもしょうがない。」
「社会に開いたとして、どんな効果があるの?」
というように、現場の先生方の多くはピンと来ていないようですが、それもそのはずです。
一言でいうと、概念が広すぎます!
「社会」と「教育課程」は、それぞれ意味の規定範囲が広い言葉です。
これらを一緒に考えたら、それはもう脳内で無限に拡がり、夢の中へトリップzzzです。
しかし!
そうは言っても、この概念は指導要領改訂の重要ポイントです。
「次期学習指導要領に向けた審議のまとめのポイント」
という、中央教育審議会(略して中教審)で審議した内容をまとめたものを、さらに抽出した報告書に、太字で書いてあるのです。
“よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創る”という目標を学校と社 会が共有し、連携・協働しながら、新しい時代に求められる資質・能力を子 供たちに育む「社会に開かれた教育課程」を実現。
文科省 「次期学習指導要領に向けた審議のまとめのポイント」
これはもう、重要の極みですね。
この選抜されている感は、野球のスターティングメンバーの中でも、さらにキーマンになるレベルです。
個人的には、「1番センター 社会に開かれた教育課程」だと思っています。
このバッターが出塁するか否かで、その後の打線のつながりに影響を与えるキーマンです。
実際、”社会に開く”という部分は、これからの学校の行く末を左右します。
なぜなら、社会に開く行為は、外部の教育資源との協力が前提だからです。
前回のブログ「教育課程はRPGの序盤だ!」で、こう書きました。
教育課程は、子どもが将来社会で生き残るための力をつける、序盤のストーリーである。
そしてストーリーメイクのポジションにいるのは、他でもなく学校だと。
つまり、学校は子どもの人生の土台づくりのために、教育課程を作成するのです。
例えば、各教科(国語や体育)の授業は、教育課程に沿ったカリキュラム(授業の進め方や評価方法)に落とし込みます。
そのカリキュラムを考え、実際に運用していくのは、現場にいる1人1人の先生方です。
蔑ろにしたら、学校での教育の根幹が崩れてしまうということもうなずけますよね。
したがって、先生や学校にとって教育課程は「根幹」であり、開くという行為は「キーマン」であると言えるのです。
次は、教育課程を「誰が」「誰に」「何のために」開き、「結果どうなるのか」の謎を解き明かそうと思います。
皆さんもイメージしやすい、「RPG上の3つの視点」で、社会に開かれた教育課程を解説します。
最後のまとめは、実際に教育課程を作成する際のポイントにもなります。
トリップせずゴールしきったら、あなたも学校の中核を担えるかもしれません。
では、10分間お付き合いください。
第1の視点 ラスボスを見据える
「社会に開く」の前に、教育課程はラスボス視点を持って作成しましょう、という話です。
RPGでは多くの場合、ラスボスを倒すことがゴールになります。
実は、この原則は学校にも当てはまるのです。
高校なら高校教育、中学校なら中学校教育でのゴールを設定しなければなりません。
「ゴール=ラスボス」ですから、教育課程においてもラスボスを見据えた視点が必要なのです。
現在の教育に、攻略本はない
「いや、現在の学校教育では、ラスボスのように明確なゴールはつくれない。」と反論される方もいるでしょう。
これは、半分正解で半分不正解です。
確かに、現在の学校教育はRPGとは異なり、ゴールが規定しづらいのは確かです。
なぜかというと、これまでの教育には「攻略本」があったり、「先にクリアした人」がいました。
ですので、学校側もストーリーメイクの前に、ラスボスの情報をある程度教えてもらうことができたのです。
例えば、社会に出たら「言われたことを正確に着実に行うこと」が攻略法だよ、という風に。
簡単に言えば、「生産過程を効率化するためのマニュアル力をつけること」を、具体的なゴールに設定できたのです。
実際、ゴールとしては、非常にクリアですよね。
では、現在の学校教育の攻略本はあるのでしょうか?
・・・ないですよね。
だからこそ、現在の教育におけるゴールを明確に示すことは難しいのです。
難しいけれども、学校でストーリーをつくる以上、ゴールを設定しなければなりません。
ラスボスを明確にするためのヒント
ラスボス(教育課程におけるゴール)を明確にするヒントは、指導要領改訂の背景にあります。
改訂の背景には、”未知の社会”をどう生き抜くか?が大テーマとして存在します。
未来は不確定であり、予言者でもない限り予想は困難です。
一方で学校は、大きく変化を遂げた社会を生きる子どもを、確実に教育します。
つまり、将来求められる”であろう”知識や技能の定着を、ゴールに設定しなければならないのです。
IoT、AI、5G、ブロックチェーン等、聞いたことのある言葉でしょう。
次世代のテクノロジーかと思いきや、すでに社会に実装され、社会は最適化し始めているのです。
テクノロジーの進化スピードの速さは半端ではありません。
要は、これらがスタンダードになっていく社会を想定した教育が必要なのです。
何が言いたいかというと、
これまでの学校教育…想像の範疇内の社会で生きていくための教育(攻略本あり)
↓
これからの学校教育…想像が困難な社会で生きていくための教育(攻略本なし)
にシフトしているということです。
つまり、社会の変化を想像した上で、必要な資質や能力を”今に落とし込む”教育課程が必要なのです。
ラスボスとの戦いに向けた準備
この資質と能力は、ラスボスを倒すために必要な”レベル”や”装備”や”呪文”に置き換えると分かりやすいです。
ただ、必要な資質や能力に関しても、そもそもの範囲が広いので、具体例を出します。
- 「テクノロジーの発展で個人の自由な時間は増え、有効活用するために健康増進はマストだ。」
- 「日本という枠内での仕事は減少するだろうから、英語のディスカッションは最低限欲しいな」
- 「付加価値をいかに高めるかが勝負。0→1体験をするために、プロジェクト学習は取り入れたいな」
というような具合です。
このように、ボヤーッと黒い影に目だけがギラリと光っているラスボス像は見えているのです。
だからこそ、「そこで戦うための武器や防具、イベントはこれだろうな」と想像をしなければなりません。
そう考えると、今を生きる子どもたち(我々大人もかも)は、不安なのかもしれません。
絶対的な攻略本がありませんから。
しかし、どんなラスボスか分からないけれど、今はレベルを上げ、仲間を見つけ、装備を整える。
難しいイベントに苦戦したり、全滅しながらも、段々と力をつけ攻略しなければなりません。
ですので、学校はその現状を受け止めた上で、子どもたちに力をつけるためのゴール設定が求められます。
つまり、子どもたちが生きる「10年、20年後の社会」という「ラスボス」を見据えた視点が、教育課程には必要になるのです。
第2の視点 仲間との協力プレイ
前提として、「仲間=主人公を取り巻く、外部の教育資源」です。
やはりRPGも、仲間を見つけ、協力しながら冒険は進めていくものです。
この視点は「社会に開く」部分の核になります。
社会の広がりと仲間の数
まず最初に、”社会の広さ”と”出会う人の数”を考えます。
子どもが所属するはじめの社会は、家庭です。
そして、保育園や幼稚園に通い、その後、小学校、中学校、高校へと進みます。
他にあったとしても、塾や地域のクラブ活動が子どもの触れる社会のほぼ全てを占めていました。
日本では戦後から現在まで、9年間の義務教育ルートが確立されています。
したがって、これまでの仲間(子どもたちを取り巻く社会)は、年齢を重ねるごとに広がるシステムでした。
接する友達の数や大人の数、学習レベル、情報の量を考えれば当たり前の構造です。
一方現代において、子どもを取り巻く社会はとてつもなく広がりました。
理由は、インターネットの普及による情報量の爆発と、情報へのアクセス可能年齢が低下したことです。
例えば、私の小学生時代、外国の方とコミュニケーションをとる機会はほとんどありませんでした。
中学校時代はALTの先生が珍しく、ちょっかいを出しに行く程度です。
しかし、今はどうでしょうか。
Youtubeを見れば、外国の方が動画を配信している。
コメントだって書き込める。運が良ければ、リプライもある。SNSで直接テキストのやり取りもできる。
何が言いたいかというと、
子どもを取り巻く社会が、年齢ごとに広がるのではなく、最初から広がり切っているということです。
オープンワールド化してしまった社会
最初から広がりきった社会をRPGに例えると、
オープンワールド化したドラクエです。
これまでのドラクエは、「ダンジョン1をクリアしたら、ダンジョン2へ」が通例でした。
しかし、これからの社会はそうではありません。
ダンジョン1をクリアしなくても、ダンジョン20の敵に挑戦したり、武器を買うことができるのです。
ここでのポイントはクリアできるかどうかでなく、ダンジョン20の情報を持つことなのです。
学校では、ダンジョンの13(前回ブログ内容「学校教育のゴールは子どもを13レベルまで上げる」から)までの対応を考慮して教育課程を組んでいました。
要は、指導要領を網羅すると、ダンジョン13までは引っ張っていけるよ。という感じです。
さて、ポイントに上げた20を知っている子どもや保護者、もっというと社会は学校にどこまでのレベルを求めるようになるでしょうか?
・・・そうです。
20まで対応可能な指導を求めてくるのです。
例えば、消費者教育や法教育、お金の教育、情報モラルなどもその求めの一つでしょう。
ここで学校が苦しむ点は2点あります。
1つ目は時間や人、場所という教育資源の限界という点。
授業時数や教員数、教室などの設備は変わらない(むしろ、教員数は減少)けれども、教えることは増えてしまうという物理的限界。
2つ目は、指導要領外の内容の取り扱いという点。
ダンジョン20で必要な知識や技能は、大部分が指導要領の域を超えています。
保健で取り扱う環境問題を例とします。
将来社会を見据えた場合、環境問題においてSDGs(2030年の世界の在るべき姿・ゴール)の考え方に触れることは必須だ、と筆者は考えます。
しかし、新指導要領の解説において、保健活動や環境の分野で「SDGsに触れなさい」という直接的な記載はありません。
とはいえ、今やSDGsは企業の成長戦略や投資家の投資対象となっている現状です。
学校卒業後に関わるはずのダンジョン20では、知っておいて得にはなれど、損にはならない考え方でしょう。
オープンワールド化した社会や学び自体は、歓迎すべきです。
一方で、学校が担ってきた教育の領域に、社会が入り込んできました。
つまり、教育領域グラデーション状態です。
この領域のグラデーションが教育課程づくりに影響しているのです。
仲間に頼るのはどこまでか問題
実際問題として、学校が教育課程を組むときに、モヤモヤする部分はここではないでしょうか。
↓
家庭や地域、民間の企業からも育てて欲しい能力の求めは大きい
(特に、家庭からはこれまでの知識重視=大学入試対策の求めも強い)
↓
子どもたち自身が触れている情報の質も量も高い
↓
一体、学校は何を教えれば良いの???
このモヤッとを打開する第一歩が、社会に開かれた教育課程です。
そして、第2の視点である「仲間との協力」なのです。
学校はもはや全てを教えられる、パーフェクトプレイスではないのです。
ですから、仲間を集め、協力しながら子どもを育てる必要があるのです。
仲間とは、親や地元の方々、地域に根ざした企業、外部の教育資源。
ですが、ここで問題が発生します。

ぜひとも将来ある子どもたちのために学校さんへ協力したいです。ストーリー内でどう協力すれば良いでしょうか?

・・・。
返事がない。ただの屍のようだ。
そうなんです。近くに仲間は大勢いるのに、どんな協力が必要なのかという肝心な部分がはっきりしないのです。

学校さんが何してるのか、いまいち分からないなあ。じゃあ、学校さんだけでストーリーを完成させて下さい。

しゃーない!自分たちで作るしかないな!(キリッ)。
茶番だなあ、と思われるかもしれません。
しかし、教育現場では実際に起きていることです。
教育課程を作成する際の、”学校完結”と”抱え込み”です。
なぜそうなってしまうのかというと、
学校担当パートがフワッとしているから、どこをお願いしていいか分からないのです。
むしろ、すべてを担当しようと背負い込んでいるのです。
原因はこれまでの「学校で教育完了」の責任感かと思います。
自負はあって当然ですし、それだけ重要な責任を負っていたも事実でしょう。
しかし、時代は超高速で流れていき、求められることも変化します。
では、その要求に対応するためにはどうすればよいでしょうか?
先程のダンジョンの例で考えてみましょう。
社会全体が、ダンジョン20までのスキルを、学校に求めているならば対応します。
けれど、「求めるだけじゃだめよ。学校の役割はここまで。だから、この部分の作成はお願いね。」
というように、パートごとに仲間との役割を分担しないと、20までは到達できません。
つまりは、役割(ミッション)の明確化と共有、分担が「社会に開く教育課程」のコアなのです。
ネックは指導要領の担保
すると、学校が必要だと思うことを何でもやれるから、指導要領なんてなくていいじゃないか?
となりますよね。実は、その”指導要領の担保”がネックの1つなのです。
指導要領の最低保証については、別の記事で書くので概要だけ。
指導要領の担保(ダンジョン13まで)は絶対要件。
担保すれば、それ以上(ダンジョン20まで)の内容も取り扱える。
しかし、1〜20までの全内容を均一に行うことは不可能(時間や人員の問題)。
だから、学習内容を精選し重点化する。
結論としては、20までたどり着くためには、「選りすぐりのミッションを、各部署がクリアしよう。」という感じです。
(まとめ)仲間との協力プレイ
では、「仲間と協力する」視点をまとめます。
①学校だけで教育を完成させることは難しい
②学校の役割を、仲間に対して明確に示そう
③学校のパート以外は、仲間(外部資源)に担ってもらおう
こう考えると、社会に開く相手や、外部資源と協力する必要性が理解できるかと思います。
第3の視点 主人公が切り拓く
1と2の視点であまり触れていなかった、主人公のお話しです。
どんなに良いストーリーを用意しても、そこを冒険するのは主人公です。
心理学者のアドラーもこう言っています。
「馬を水辺に連れて行くことはできても、呑ませることはできない」
最終的には、主人公が冒険の意義を見出し、志を持ち旅に出る必要があります。
冒険の意義はゴールの存在を知ることで自覚する
では、冒険の意義を理解するには何が必要でしょうか。
RPGにおいて、主人公が最初からノリノリで「魔王を倒しにいくぞ !」的なストーリーはありません。
多くの場合、平和に暮らしていたある日、街の人々が何者かに連れ去られ、世界は混沌とします。
そしてこれは、魔王の仕業だと分かる。救えるのは主人公しかいない。
どう考えても、今はまだ力が足りない。仲間もいない。
あの強大な魔王には勝てないかもしれない。
ここで、主人公は決心をします。
「仲間を見つけ、鍛錬を積み、イベント乗り越えながら、魔王に挑む」と。
つまり、旅のゴール(魔王討伐)が生まれ、目標(仲間、鍛錬、イベント)が明確になるのです。
教育課程においても同様で、子どもの決心を呼び起こさせる存在であろうということです。
まず「自覚」です。冒険の主人公は子どもであるということ(学校はストーリーメイクとサポート)
次に「ゴール」です。将来社会を切り拓くためのスキル(学校目標、各教科の目標など)
最後に「道のり」です。ゴール到達のための学び方(カリキュラム)やイベント(特活や総探、行事など)
要は、主人公目線の教育課程は、
『学校が「したいこと」「できること」「やること」を示すね。できる限りの応援はする。しかし結局は、君たちが冒険の主人公なんだよ。』
という、メッセージを伝え続けるための説明書(今はチュートリアルでしょうか?)にもなるのです。
実際に、主人公にその場に立ってもらい、ストーリーの道のりとゴールをイメージしてもらうのです。
第3の視点は、いうなれば子どもにも知ってもらう教育課程です。
教育課程を子どもに見せたら
しかし、子どもに教育課程を見せたところで、「ポカーン」ですよね。
大人も一目で理解できないのに、子どもなら尚更のことです。
ですので、文科省は提案をしているのです。
教育課程を噛み砕き、分かりやすくした「学びの地図」を作ろう。
それをチーム学校の仲間と共有しようと。
学びの地図という新たなワードが出てくるのですが、その大本はやはり教育課程です。
学校における、ゴールと道のりを示された子どもたちはどう考えるでしょうか。
ゴールに辿り着くためには学べばよいのだ、つまりは「学ぶ意義」を自ずと考え始めます。
その理由は、子どもたちも「何が求められ」「何が与えられ」「何をやるのか」が明確になるからです。
子ども側からすれば、どんな強敵が待ち受けているのか。
どんな楽しいイベントがあるのだろうか、と考えながら進んでいきます。
分からないけれども、魔王には挑まないといけないんだという自覚が芽生えます。
どんな魔王なのかは分からないから、より多くの仲間に出会おう。
装備を身に付けよう。レベルも高めておこう。
ここまでくれば、もう立派な主人公です。
学びの意義が、自分の人生に結びついているのですから。
(まとめ)主人公が切り拓く
では、「主人公が切り拓く」の部分をまとめます。
①ストーリーメイクは学校、冒険するのは主人公(子ども)
②主人公に対し、学校はゴールと道のりを示す
③学びに関して当事者意識を持ち、真の主人公となる
まとめ
最後に、3つの視点を整理して、教育課程を作成するときの指針にして頂ければ幸いです。
第1の視点 将来社会に必要なスキルを今に引っ張ってこよう。
第2の視点 学校はミッションを明確に。
外部資源にもミッションを分担、協力してもらおう。
第3の視点 教育課程は子どもと共有。学びの当事者意識をもたせよう。
このポイントを意識するだけで、教育課程を組む際に優先順位が見えてくるはずです。
教員が考えると、どうしても各授業レベルのミクロな話になりやすいです。
しかし、教育課程は学校外との関連が前提にあるため、マクロ視点での検討が必要なものです。
この記事を読み終えた方はぜひとも、マクロな視点を持った教育課程の編成委員になって下さい。
(おまけ)教育課程の現実的な運用
現実的な話。教育課程を子どもや保護者、協力機関等が100%理解することはできません。
ですので、先に少し触れた「学びの地図」が、実際の教育課程に代わるものです。
教育課程の作成もそうですが、重要なことは学校教育の軸を強固にすることです。
「こうなってほしいから、こう育てるんだ」という木の幹を、太くしないといけません。
これまでも学校が在り続けた(木が倒れない)のは、周りを支えている外部の方々がいたからです。
あくまで木の幹は学校でいいのです。
けれども、時代の流れに遅れていたり、社会の規範からずれてしまったり。
まっすぐに伸びていかなくなってしまうこともあり得ます。
学校外の様子は、外(社会)から教えてもらう。
だからこそ、協力しないといけないのです。
殿様教育ではなく、城門を開き、情報の風通しをよくしないといけないですね。
次回は、教育課程に基づいた運用の歯車となる、カリキュラムマネジメントの解説をしていきたいと思います。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
コメント